自己紹介


MASA

開運メイクアップアーティスト

1994年 15歳から単身海外に渡る。


1996年からロサンゼルスでメイクアップの総合的技術を習得。


卒業後はロサンゼルスを拠点に、ムービーやスチールの現場で経験を積む。

 

帰国後は、外資化粧品会社、メイクサロン、フリーランスとして活動を重ねながら、メイク講師としての道へ。

 

そして現在は、

【ただ綺麗にするメイク】ではなく、年齢や経験を重ねたからこそ生まれる違和感や迷いに寄り添いながら、


"その人本来の魅力と運の流れを整える開運メイクアップアーティストとして活動。


 

 ⚠️注意⚠️

 

ここから先は、私自身の人生をオープンに書いています。


重たい内容もありますし、とっても長いですが、これまでの経験や想いを、できる限り正直に書いています。


ご興味ある方に、届いたら嬉しいです

 

1978年2月4日、東京都新宿区早稲田で、年の離れた2人の姉がいる末っ子として生まれました。


典型的な末っ子長男B型・・・笑)

 

生まれながらに愛嬌と明るさだけは与えられました。

 

 

姉2人の中で育ったからか、幼少期の頃から幼稚園でも女の子としか遊ばない。笑)



男子特有のヒーローごっこなどには興味なく、女の子の中に混ざってゴム跳びなどで遊ぶことを好んでいたそうです。



確かに当時の写真は、女の子の集団に混ざった僕の写真しか見つからない。笑)



そんな僕も小学生になり。



この頃から水泳を始めました。



早稲田から中野にある水泳教室に1人で電車に乗って通うのが嫌で嫌で。



毎回行く前に、『熱っぽい』などと言ってみては母親に仮病と見破られ。



半強制的に通わされました。笑)



でも、継続した甲斐があったのか、小学校6年生の頃には、地元の大会で銅メダルを取るまでに!



そして、中学生へと進み。



この頃から、バレーボールを始める。



僕の身体的特性に合っていたのか、バレーボールにのめり込む日々。



バレーボールが楽しくて楽しくて仕方なく、バレーボールをするために学校に行く。



そんな毎日。



中学3年生の頃には、親善試合の選抜選手に選ばれて中国遠征を経験しました。



ちょうど同じ日程で、姉の結婚式がアメリカであり。



僕以外の家族みんなはアメリカに。



そして僕は中国に...



そんな中、高校への進路選択の時期。



バレーボールの強豪校である高校からスカウトを頂きました。



でも何故か当時の僕は、

【高校ではもうバレーボールはやらない】と、普通受験することを選択。



勉強は全くやってこなかったし、バレーボールが大好きだったのに。



何故、この選択をしたのか。



今となっては本当に"七不思議"。



そしてこの選択が僕を暗闇へ。

※中学校卒業式当日の朝に撮った写真

 

【高校を3週間で中退】


高校に入学した初日から、僕は上級生に目をつけられました。

でも、クラスメートとは楽しく過ごしていた実感があったから、


翌日から上履きがなくなったり、カバンの中のウォークマンや私物がボロボロに壊されたり。


入学後すぐに、そんな事があっても我慢していました。


自分がそんな事をされる対象なんてありえない。


当時の正直な気持ちです。


でもある日突然、仲の良かったクラスメートから手のひらを返したかのように無視されはじめる事に。

帰宅時、学校から駅までに向かうスクールバス。


そこで、僕の存在が完全に消し去られたような対応を受け。



『あっ、クラスメートからもイジメられるんだな』と実感し。



入学直後の学力テストで、白紙で提出するという僕の精一杯のSOS。


その結果、担任からは「入学してすぐにこんな問題を起こすのはおかしい」と、僕が問題児扱いされて。


なんだか全てがバカバカしくなりました。

そして、両親に学校で起きていることを全てを話し、入学からわずか3週間、

退学することを決めました。


当時、母は退学という決断を渋っていました。


それでも父が、

「今すぐそんな高校は辞めろ」と言ってくれたことで、僕は苦痛な日々から解放され。


退学当日、母親と2人で退学手続きと、教室に残っている荷物を取りに学校へ。


荷物を取りに行くと、クラスでは英語の授業中。

先生たちはもちろん僕の状況を知っていたはずなのに、なぜか授業を中断して、クラスメイトの前に僕を立たせました。



『最後に一言みんなに』と言われ、



教壇に立った僕は『みんなとは違う人間になるために学校をやめる』と、かっこつけた言葉を言ったこと、そして教壇に立った時のみんなの顔、今でも鮮明に覚えています。



そして、その高校を後にする。



【中退後は引きこもり生活】

わずか3週間で高校を中退。



そんな劇的な形で、やっとあの環境から逃れられたと安心したのも束の間。



中退後の日々は想像を絶するほど、僕にとって地獄になりました。


"中退"という現実が、15歳の僕にはあまりにも重すぎました。


そして完全に心のバランスを失い、
僕は引きこもりになりました。



部屋のカーテンは開けられない。



中学時代の友人からの連絡もすべて居留守。


薄暗い部屋で毎日死ぬことばかり考えるだけ。



『何で自分なんて産んだんだ』


『今すぐ殺してくれ』


と母親に包丁を持っていっては酷くあたる日々。


そして、この頃から現れはじめた、「身体醜形症」の症状。


鏡に映る自分がとにかく醜く。


こんな顔では人から笑われる。


生きている価値なんてない。


こんな姿ならいっそ死んでしまおう。


そんな強迫観念に囚われました。



そしてストレスなのか何なのか、突如髪が抜け始め、


鏡の前で何時間も過ごしては鏡を割る。


テレビを観ていてもCMの度に鏡を見ないと『もっと醜くなっていたらどうしよう』



そんな不安と恐怖で、いてもたってもいられない。



当時は母親にいくつかの心療内科に連れて行かれました。



でも、僕が辛さを伝えても、尿検査をしたり、悩みの核心から離れたカウンセリングが続くだけで、、、


僕は自ら行くのを辞めました。



【そして、日本を飛び出す】



そんな引きこもり生活の中で、当時は
洋楽を聴いていました。



その中でも、とくに感情移入してしまったのが【MADONNA】



1990年代初頭は、マイケルジャクソンと並んで
世界の2大スーパースターと呼ばれていた存在。



そんなマドンナに感情移入した最大のきっかけ。



それは、マドンナが10代でわずか35ドルだけを握りしめて、NYでホームレス同然の生活から這い上がったというサクセスストーリー。



感情移入というよりも、当時はそんなマドンナに"取り憑かれ"ていました。



完全にマドンナという存在が、僕の人生の中心になってしまったんです。


そして、



【今の状況から抜け出すには世界に出るしかない】という思いが強まり。


『今すぐマドンナのいるアメリカに行かせてくれ』と母親にお願いしました。



でも当時のアメリカは、日本人留学生がハロウィンに射殺されるという事件がまだ鮮明に記憶に残っている時代。


15歳だった僕をアメリカに行かせることを母親は猛反対。



せめて安全な国ということで。



15歳の秋、僕は単身ニュージーランドへ渡りました。



今考えると、どこでも良かったのかもしれません。



その時の僕は、日本から離れれば【今までの15年間すべてを捨てて生まれ変われる】



そう信じていたんだと思います。

 

NZの高校を2時間で退学】


今でこそ多くの方から「15歳で単身海外に行くなんてすごい」と言われますが。



まったく誇れることはなく。


生きてきた15年間全て捨て去りたかった。


日本語すらも忘れたかった。




完全に"新しい自分"に生まれ変わりたかった。


わずか35ドルを握りしめてニューヨークに渡り、ホームレスからスーパースターにのし上がったマドンナのように自分もなれるんだ。



当時はそんな妄想だけで、海外に飛び出しただけなのです。


そして渡航先のニュージーランドにある都市、オークランドに到着。



人生初の異国の地で、異国の家族とホームステイをする生活。


ここから心機一転と思った矢先、、、


ニュージーランドで入学した高校も、【2時間】で退学になりました。


2時間で退学!?



皆さんそう言いますが。



実際にそうなったんです。



当時の僕は、自分もマドンナと同じレベルの存在だと思い込んでいました。



むしろそれが唯一、当時の僕の心を保つ手段でした。


マドンナがテレビのインタビューやライブ、会見で見せていた振る舞いや言葉使いを、完全に日常生活の中で真似ていました。


テーブルの上に足を乗せて話す。



挑発的な言葉と態度で悪態をつく。



1990
年代初頭のマドンナは、過激な戦略で世界を挑発していた時期。


それらを「マーケティング」の一環として行っていたことなど、当時の僕には知る由もなく。


そんな僕は本当に、日常の生活でそれらを真似ていたんです。。。恥)


今考えると、あの時の僕は無礼を通り越した態度だったと思います。


そんな僕の態度に、入学したニュージーランドの校長先生は大激怒。



初日(たった2時間)で強制的に退学をつきつけられました。


激怒した校長先生は、日本にいる僕の両親に怒りのファックスを送り、、、



遠く離れた両親は驚きと落胆。

 

【ホストマザーからの愛情】

学校から追い出された僕は、異国の地で一人、この先どうすればいいのか分からなくなり、大泣きしながらニュージーランドのだだっ広い一本道を歩いてホームステイ先に帰りました。


僕がホームステイ先に到着する前に、すでに高校から退学になった旨をホストファミリーには連絡が入っていたらしく、


僕が大泣きしながら辿り着くと、ホストマザーが家の外の道路で僕を待っていてくれました。


そして何も言わずにハグしてくれたのです。


僕自身、ハグされることに慣れていませんでしたが、


でもこの時は、何故かすごく安心したというか何と表現したらいいか。


きっとこのハグがなく、ホストマザーに見捨てられていたら、今の僕はなかったかもしれません。


ホストファミリーは、退学になった高校から斡旋されたご家族だったため、本来なら退学になった僕を面倒みる必要はありませんでした。


にも関わらず。


退学後もホストマザーは『MASAをこのまま面倒みる』と、退学になった高校に連絡をし、僕を継続して面倒を見てくれました。


その後はホストマザーの協力のもと、語学学校を一緒に探してもらい、語学スクールで英語を学びはじめました。


そんなホストマザーは当時、ニュージーランドのワイタケレ市の議員でした。


そして議員と並行して美容師やヘアメイクの仕事もこなすパワフルな女性。


当時、ホストマザーが議員として勤めるニュージーランドのワイタケレ市と、兵庫県の加古川市が姉妹都市の提携をされていて、交換留学のプロジェクトがありました。


そしてホストマザーの計らいで、ニュージーランドの市議会議員さんと一緒に僕もニュージーランドから加古川市に行き、日本からワイタケレ市に留学に来ている15歳の少年という事で、僕のリアルタイムの体験談を話す機会を与えてくれたのです。


僕の両親も千葉から兵庫の加古川市に行き、僕を救ってくれたホストマザーとその時初めて対面しました!

※その時の写真。15歳当時の僕とホストマザーのYvonne、そして今は亡き父

 

 

【メイクへの道】

 


そんなホストファミリーに心底支えられた生活を経て、17歳の頃に日本に帰国。


ホストマザーの影響から、当時から美容に興味を持った僕は、暇さえあれば本屋でファッション誌やアート、写真集を立ち読みしていました。


そんな中、たまたま立ち寄った新宿の紀伊国屋書店で見つけた一冊の写真集。



7000円近くする、当時の僕には高額な金額。



でもどうしても欲しくて買って帰りました。


世界ナンバー1のメイクアップアーティストと称され、


世界中のセレブリティやスーパーモデル、ハリウッド女優のメイクを手掛けていたメイク界唯一無二のレジェンドである、Kevyn Aucoin氏の写真集。




そしてこの一冊をきっかけに、メイクの道に進むことを決意する!


そして翌年、18歳からロサンゼルスに渡米。



Elegance international professional of makeup
にて、メイクアップの知識と総合的な技術を習得しました。


 


そしてこの頃から、ありえないような【引き寄せ】が連発します♪



 【奇跡の引き寄せ3連発!?】

 

引き寄せ

メイクスクール在学中、「Kevynがビバリーヒルズに来る!」という情報をキャッチしました。

僕は一生懸命に自分の思いを英語で手紙に書き、勇気を出してKevynに会いに行きました。

手紙を読んでもらえるように、カラーペンでド派手に書いて、、、笑

そして...遂に

1
年前、新宿紀伊国屋書店で見つけた写真集からメイクを学ぶきっかけとなった、偉大なるKevynと、初対面を果たしたのです!


奇跡はそれだけではありません。


僕が渡した手紙に感動してくださり、なんとKevynから返事が届いたのです!


当時僕はロサンゼルスのアパートを転々としていたため、返信先は通っていたメイクスクールの住所にしていました。(勝手に...)


授業中、メイクスクールの事務局の職員が教室に来て、「MASA宛にKevynから手紙が来ている!」と持ってきてくれました。


クラスは大騒ぎに。


それほど、ケヴィン・オークインという存在は、当時メイクアップアーティストを目指す人々にとって神様のようなレジェンドだったのです!

※18歳当時の僕と、Kevyn Aucoin

 

引き寄せ

当時ロサンゼルスで活動していた日本人の美容師の方から、ある映画のメイクのお仕事にお声がけいただきました。



当時の僕は、まだメイクスクールに通いたての学生だったのですが、手作りの名刺?を作って【メイクアップアーティスト】と名乗って配っていたんです。(当時はとても破天荒でして...)



そして、、、



そのお声かけくださった
映画の主役女優さんのメイクアップアーティストだったのが、



マドンナが1990年に行った伝説的なワールドツアー【Blond Ambition Tour】のマドンナ専属メイクアップアーティストのジョアンヌさん!


まさに、日本の高校を中退し、引きこもっていた時に観ていたマドンナのドキュメンタリー映画【Truth or Dare

日本での映画名は【In bed with Madonna】のマドンナのメイクシーンにも何度も出ていたジョアンヌさん。


当時、ロサンゼルスではインディペンデンス映画がたくさん作られていて、その映画もそうでした。


その映画の主演女優さんは新人女優さんだったのですが、女優さんになる前はフランスで超大御所ファッションデザイナーのアシスタントをされていたという異色の経歴のある女性で。



その時にマドンナやジョアンヌと接点があり、今回の作品にジョアンヌがメイクアップアーティストとして参加してくれたとのこと。



そして、ここからがあり得ないのですが、、、


ジョアンヌがその女優さんに施したポスター撮影用にしたメイクを、僕が映画の撮影時に主演女優さんにその通りのメイクをするという内容のお仕事。



今考えても笑うしかない。笑)



当時の僕は、まだ学校ではファンデーションの塗り方しか学んでなかったから。


そんな僕がマドンナの専属を務めていたジョアンヌさんのようにメイクができるはずもない、、、。


最初の顔合わせの時、ファンデーションを塗った瞬間に「メイクの仕方分かってる?」とさっそくご指摘を受け。汗)


「全然色が合ってないよ」



「色をミックスすることをまずは学んだ方がいいよ」と、



女優さん自身からも沢山のご指摘をいただきました。汗)


一番出来なかったのがアイライン。


ジョアンヌから頂いた漆黒のコールライナー。


そんなもの使ったことないどころか、アイライナーもまだ学校ではやったことない。


挙句、女優さんは『自分でやるわ』と。


そんなこんなの珍道中でしたが、なんとかやり遂げました、、、



やり遂げたというよりは、女優さんに支えられっぱなしという状態。




当時の僕は、アメリカではまだまだ子供に見られていました。



日本から異国に来て頑張っている10代の男の子という感じで、女優さんもある意味僕を面倒見てくれたのだと思います。


そしてその女優さんは、その後も他のお仕事の時に僕に連絡をくれたり、アクター仲間を紹介してくれたりと、すごく良くしてくださいました。



引き寄せ

これもメイクスクールに在学中に起きた奇跡的な体験。


ロサンゼルスでできた友人と、クリスマス休暇を使ってNY旅行に行きました。


人生初のNY。


フライト中に読もうと、空港でファッション誌を買い。


機内で雑誌を見ていると、当時から世界的に有名な日本人のメイクアップアーティストの女性が載っていました。(以降、Aさんとします)


A
さんの存在は雑誌などで以前から存じていたので、
同じ日本人で、世界でこんなに活躍しているなんてすごいなぁ」と思いながら。


NYに到着。



翌日、友人とマンハッタンの街を観光していると、見覚えのある日本人女性が犬の散歩をして颯爽と歩いている。


その女性こそ、雑誌で見たメイクアップアーティストのAさんでした!


「あっ、Aさんだ!」



っと思ったものの、そんな大御所アーティストに声をかけることなど出来ず。



偶然、Aさんに遭遇しただけでもすごいラッキーだと思ってました。


そしてその翌日、一緒に行った友人が、



「ニューヨークに在住している、日本人のジャーナリストの友人がいるんだけど、鍋パーティーするから来ればと言ってくれてるんだけど一緒に行かない?」と。



お言葉に甘えてついていくと、、、



そこには3名がいらっしゃいました。


一人はお誘い下さった友人の知人のジャーナリストさん。


もう一人はニューヨークで活躍する日本人のヘアアーティストさん。


そして三人目は、なんとAさん!



もう驚きを通り越して大興奮。


飛行機の中で見た雑誌にAさんが載っていたこと、



マンハッタンの観光中に、犬の散歩中のAさんを偶然お見かけたこと、



そして今、実際にお会いできたこと、



めちゃくちゃ興奮しながら伝えました。



それだけでも、十分奇跡なのに、、、



更なる奇跡が!


一緒にNYに行った僕の友人が、



MASAも今ロサンゼルスでメイクの学校に通ってるんですよ」と紹介してくれたことで、


それを聞いたAさんが、



「ロサンゼルスで開催される、アカデミー賞の受賞式で顧客のハリウッド女優さんのメイクで参加するから送迎お願いしようかな」と。


えっ!?


僕が、世界で活躍するメイクアップアーティストさんの送迎!?


でもその時は、咄嗟に『是非是非』と僕の電話番号をお伝えし。



素敵なNY旅行を終え、ロサンゼルスに戻りました。


それから数ヶ月の月日が経ち。


ある日、ロサンゼルスの自宅の電話が鳴り。


電話はなんとAさんから。


あのお話しが実現し、Aさんを送迎させていただくことに。



ただ、ここで一つ問題が。



まだメイクスクールの学生だった僕が乗っていたのは、留学仲間から譲ってもらった古い車。



古いだけならまだしも、



塗装もハゲかけてる。



今考えれば、レンタカーなどいくらでも対応出来るのに、当時の僕はその思考はなく。


その車で、世界の第一線で活躍するアーティストさんの送迎を。汗)


そしてAさんのお仕事が終わりお迎えに行くと、



そのままサンタモニカの素敵なイタリアンレストランで、美味しいパスタをご馳走してくださり。



まだ学生の僕には貴重なお話しやアドバイスを沢山いただきました。泣)



そして食事後は本屋さんに行き、



Aさんが担当された数々の作品を拝見されていただき。



今考えても夢のような時間と機会を与えてくださりました。
※NY旅行での鍋パーティーの時の写真。僕以外のお顔は隠しています。

 

そんな最高にエキサイティングな経験をメイクスクール在学中に体験し、卒業後はロサンゼルスでフリーランスのメイクアップアーティストとして活動。


ロサンゼルス在住の日本人カメラマンさんと知り合い、日本のプレイボーイ誌のメイクや、(日本にいる母親が「マサがやったメイクの雑誌」と喜んで買ったのはいいものの、トップレスのアメリカ人モデルの写真がずらり。笑)
親戚など誰にも見せられなかったらしい。笑)


当時アルバイトしていたダウンタウンの日本人街の居酒屋で知り合った雑誌の編集者さんから、メイクの変身企画のコーナーをやらないかとオファーをいただきコーナーを持たせていただいたり。


インディペンデンス映画のメイクや、雑誌、スチールなど本当に沢山の刺激的な経験をさせてもらいました!



そして次なるステージへ。


 

NYの街中で挫折!?】


2001年、拠点をロサンゼルスから世界の中心である都市、NYに移すと決意。



ロサンゼルスのアパートを引き払い、一度日本に帰国。


必要なものだけをスーツケースに詰め。



マドンナのルーツであるNYに。



マドンナが35ドルを握りしめてニューヨークに行った時、



タクシーの運転手に、



「ニューヨークの中心に連れてって」と言って辿り着いた場所。



タイムズスクエア】



僕もニューアーク空港に到着後、同じ様にタクシーに乗り、



『タイムズスクエアまで』と。



NYでマドンナと同じように生きて、マドンナと同じように絶対這い上がってやると覚悟して行ったから。



泊まる場所など、何も用意していない。


マドンナの伝記本の中では、当時のマドンナはりんごやポップコーンで食い凌ぎながら、と書いてあったから。



僕もりんごとポップコーンを買い、



ニューヨークのセントラルにある駅でスーツケースを抱えながら夜を明かしました。


駅には、たくさんのホームレスの方々もいて、



とにかくスーツケースを抱きかかえるように一晩を。


翌日は、以前ニューヨーク旅行で知り合った、日本人のヘアアーティストさんにお願いし、彼が経営するサロンにスーツケースを置かせていただき。


いざ自分を売り込もうとNYの街へ。



でも、この瞬間、



言葉では表現出来ない、漠然とした恐怖と不安に飲み込まれました。



この時と感覚を、どう説明すればいいのか今でも分からない。



『自分には出来ない、、、』



まだ何もチャレンジすらしていないのに、そんな思いが込み上げてきました。



【自分はこの大都会でどうすればいいの?】



【どこに行けばいいの?】



【どう売り込めばいいの?】


結局、当時の僕は、マドンナと同じようにNYに行けば夢は叶うと、その思いだけで何も考えずに行っただけ。



何の準備もせずに。



ただただ思い込みだけで。



当時のNYは街中で石を投げたら、

モデルの卵か、ファッションデザイナーの卵、アーティストやダンサーの卵に当たるだろうと言われるくらい。



世界中から【野心】しかない人たちが集まっていました。



LA
では感じたことのない、圧倒されるような強烈なエネルギー。



そんなエネルギーに完全に飲み込まれました。



今考えてみたら、当たり前の結果。



だって、NYに行くだけで夢なんて叶うわけないから。



マドンナのように、世界を圧巻できるわけないのだから。



今でもはっきり覚えてる景色。



マンハッタンの中心部から横道に入った工事をしていたビルの脇。



そこに公衆電話がありました。


そこに立ち止まったまま動けなくなり、


15歳からの時間が、走馬灯のようにフラッシュバックしてきて。


『何でこんな人生を送っているんだろう。』



『中学時代の同級生のように、もっと楽しい10代を過ごせたのではないか。』


『何で異国で一人、こんなに気を張って生きているのだろう。』


そんな思いが突如湧き上がり。


「もう疲れた」


今でもはっきりと覚えてる、この言葉が自然と口から出てきました。


思い起こせば、日本の高校を3週間で退学し、



引きこもりになり、



「身体醜形症」の症状に苦しみ、



マドンナと同じように生きると15歳から一人、日本を飛び出して異国に行き。


そんな時間が一気に蘇ってきました。


 
そして「日本に帰ろう」と、




その場で決め、



公衆電話から日本にいる母親に、




日本に帰る」と連絡。




帰る前日はモーテルに泊まり。



部屋の中で、



「あなたはマドンナではないんだよ。いい加減に現実を生きなさい」



というような内容を、自分自身に手紙を書き、アメリカを後にしました。
※アメリカで最後に撮った写真。

 

【心の勢いを失くした月日】

 

 

帰国後は、外資化粧品会社やメイクサロン、ブライダルショーやコレクションなどのメイクなど、様々な仕事をしましたが、、、



アメリカから帰国した当時の僕は、手を差し伸べてくれる素敵な方々と出会っても、自らそれを手放してしまうかのように、すぐに辞めてしまう。



その繰り返し。。。


メイク以外に興味のあったモデル事務所のマネージャーの仕事をしてみたり、異なる仕事をしてみても結局すぐに辞めてしまう。



何をやっていても気持ちここにあらず。


生活も心も不安定で転々とした日々。


そんな中、当時から学園もののドラマが大好きだった事もあり、テレビで某学園ドラマを見ていた時に、


【人に教える仕事がしたい】


そんな想いが湧き起こり。


そんなタイミングで、某美容学校で勤め始めました。


担任としてクラスをもち、生徒管理をしながら、メイクのスキルを教える。


想像していたよりも教員職は、はるかにハードな仕事だったけど、本当に素敵な同僚達、そして生意気だけどカワイイ生徒達に支えられて、あれよあれよと10年間勤め上げました。


日本に帰国してからずっと、仕事を転々としていた僕にとって、一つの大きな大きな成長であり、あの10年間は人生の一つの宝物。


 

【突如、CDデビュー!?】


そんな教員生活を送っていた2012年頃。


ふと「音楽をやりたい!歌ってみたい!」という感情が芽生えました。笑)



歌う事は大好きで、カラオケには頻繁に行っていました。



がっ、



ボイトレなんて通ったこともない。



もちろん楽器なんて何もできない。


当時の僕に出来ることは、素人レベルの歌唱のみ。笑)



30代半ばの僕が音楽をやるにはオーディションしかない。


当時はそんな思考から、仕事が休みの週末を利用して、若い子に紛れながらオーディションを受けていました。笑)


当時の僕の定番曲、Bon Jovi の「Always」という、こってこてのバラード曲を武器に!笑)


まあ、ことごとく受からず。笑)


『この年齢から音楽をやるなら、オリジナルの曲で勝負するしかない!』という思考に変わり。


それからは毎日毎日、仕事の休憩中にバンドメンバー募集の掲示板に投稿しまくる日々。笑)


音楽経験ゼロ。曲が作れて、なおかつ一緒に歌えるような方を探してます】


こんな文章を毎日投稿。



もう、ここまできたら完全に他力本願の精神!笑)


メールをもらう度に実際に会いにいき、お互い『なんか違うな』と。



その繰り返し。



でも、その時の僕はそれしか音楽活動をする手段はないと思い込んでいたので、こんな調子で約6ヶ月間、毎日毎日投稿し続けていました。



そんな執念で毎日投稿しまくった結果、、、


素敵な音楽が添付されたメールが届く。


添付してくれた曲を聴いた瞬間、「めちゃくちゃ良い曲」!



すぐに返信をして、数日後都内のサイゼリアで会い。笑)



会った日に、『活動するなら◯◯といつ名前で活動したいんです』と言われ、



僕は、『音楽活動出来れば何でもいいです!』と。


そんなスタートから一緒に活動することに。



僕にとっては、念願の音楽活動のスタート!



そこからはすぐに、相方が作る素敵な曲でデモテープを作り、ありとあらゆるレコード会社に送りまくっていると、
インディーズレーベルからデビューさせていただきました!



人生初のワンマンLIVEでは、大御所のアーティストさんがゲスト参加してくださったり。



某番組のエンディングに使っていただいたり。

 

 

全くの無名で、認知度もない僕たちが、音楽を通してたくさんの素敵な方々と出逢い、たくさんの場所に行き、たくさんの素敵な経験をさせていただきました。
※大阪駅前でも歌ったりもしました。


大阪万博のメインステージで開催された、よさこい祭りのテーマソングに僕たちの曲を使ってくださったり。



それはまるで、10代の頃にメイクアップアーティストを夢見てアメリカに渡った時に、たくさんの奇跡を体験したかのように。。。



僕にとっては、人生の大切な大切な体験。


 

【自分を見つめ直す出来事。そして新たな道へ!?】


教員生活と、音楽活動。


2つを両立していた2014年ころ。


僕自身を見つめ直すような出来事が起こりました。



大きな大きなストレスに支配され、毎晩のように夢の中で何度も大きな鏡が「バリーーン」という音を立てながら粉々に砕け散る映像が出てきたりと、、、


ストレスで心も体も押し潰される。


ただ、今考えると、この時から僕の精神性が芽生えていったのかもしれません。


ストレスが人間の心と体にどれだけ大きなダメージを与えるのか。


これを身をもって体感しました。


そしてそれをきっかけに、新たな道に進むことを決断。


長年勤めた専門学校を退職し、米オレゴン州ポートランドを拠点にスピリチュアルヒーラーとして活動する姉、ヒロコ・ヒバードより、エッセンシャルオイルを用いたヒーリングを学びはじめ、


そして同時期からは、某整体院でボディケアの知識と技術を習得し始めました。

 

また、一般社団法人日本レイキセラピスト協会認定レイキーヒーラーを取得し、日本トリソフィーセラピー協会認定メディカルアロマ心理カウンセラー講座を受講。


この時から、自分の本質に近づいていく感覚があり、自分の中のスピリチュアリティに基づいた思考になり始めました。


そんな中、世界を震撼させたコロナウィルス。


それまで活動していた音楽から離れ、意識は精神世界に移行し始め、


コロナ禍が明けた2022年頃からは、スピリチュアルイベントに出店を始めることに。


ただ単に、メイクで綺麗にして差し上げたいのではない。


僕自身が生まれ持った直観力と強い感受性、そして僕が生きてきた人生から身につけた能力や人間性、そして最大の武器であるメイクアップ。


それら全てを生かして、目の前にいるお一人お一人が望む未来へと進むサポートをしたい!


そんな強い思いと覚悟から、肩書きを【開運メイクアップアーティスト】とし、現在は様々な場所で、イベントや講座を中心とした活動を行なっています。

 

こんなに長い文章を読んでいただき、ありがとうございました!