自己紹介


MASA

開運メイクアップアーティスト

日本トリソフィーセラピー協会認定

メディカルアロマ心理カウンセラー修了

一般社団法人日本レイキセラピスト協会認定レイキヒーラー 

ボディケアセラピスト

1994年 15歳から単身海外で生活をはじめ、米ロサンゼルスでメイクアップの総合的技術を習得。

その後はロサンゼルスを拠点にムービー、スチールを中心に活動。

 

帰国後は、外資化粧品会社、メイクサロン、フリーランスのメイクアップアーティスト、などの活動を経て、メイクアップ講師として活動。

 

現在は【開運メイクアップアーティスト】としてメイクというツールを軸に、お客さまお一人お一人が望む、輝く未来へと導くサポートを精力的におこなっている。

 

女性起業家からも信頼が厚く、メイクから遠ざかっていた多くの40代から60代の女性からの支持が高い。


 ⚠️注意⚠️


ここから先は、私自身の人生をオープンに書いています。

とっても重たい内容も書いてますし、『伝記かよっ!』と思うくらい長〜〜〜いですが、ご興味ある方のみお読みくださいませ♪

 

1978年2月4日、東京都新宿区早稲田で、年の離れた2人の姉がいる末っ子として生まれました。


典型的な末っ子長男B型・・・笑)

※1歳の時と、3歳の時の【マー君】笑)

 

生まれながらに愛嬌と明るさだけは与えられ、すごく可愛いがって育ててもらった記憶はあります。

 

 

姉2人の中で育ったからか、幼少期の頃から幼稚園でも女の子としか遊ばない。笑)



男の子特有のヒーローごっこや野蛮な遊びは興味なく、女の子の中に混ざって遊ぶことを好んでいたそうです。

※今も変わらずだけど。笑)



確かに当時の写真は女の子の集団に混ざった僕の写真しか見つからない。笑)



そんな僕も小学生になり。



この頃から水泳を始める。



早稲田から中野にある水泳教室に1人で電車に乗って通うのが嫌で嫌で。



毎回、行く前は『熱っぽい』などと言ってみては、母親に仮病と見破られ、見送れながら通い。



でも継続した甲斐があったのか、小6の頃は地元の大会で銅メダルを取りました!笑)



そして中学生からは水泳ではなくバレーボールを始める。



僕の特性や性質に合っていたのか、日に日にバレーボールにのめり込みました。



バレーボールが楽しくて楽しくて仕方なく、バレーボールをするために毎日学校に行くような日々。



通っていた学校自体は強くもないチームでしたが、中学3年の頃には、選抜選手に選ばれて中国遠征も経験しました。

※千葉県内の選抜ですが、、、汗)



そして高校への進路選択の中、バレーボールの強豪校である高校からスカウトを頂いたりもしましたが、、、



なぜかその時の僕は、【高校ではもうバレーボールはやらない】と、普通受験した高校を選びました。

※今現在、僕の人生での一番の後悔は?と聞かれたら、この時の選択。



なんであんなにも大好きだったバレーボールを自ら【やらない】選択をしたんだろう、、、



そしてこの選択が、その先の僕を暗闇の中に落とし込む結果に。。。

※中学卒業式当日の朝に撮った写真

 

【高校をわずか3週間で退学!?】


高校に入学した初日から、僕は上級生に目をつけられ、、、

翌日から、陰湿ないじめが始まりました、、、

でも、
クラスメートとはすごく仲良く、楽しくワイワイと過ごしていたため、


毎日靴がなくなったり、カバンの中のウォークマンや私物がボロボロに壊されたりしても我慢していました。


でもある日突然、仲の良かったクラスメートから手のひらを返したかのように無視されはじめる事に。

学校から駅までに向かうスクールバス。


そこで、僕の存在が完全に消し去られたような対応を受け。



『あっ、僕はもう仲良かったクラスメートからもイジメられるんだな』と実感し。



入学直後の学力テストで、全教科白紙で提出するという僕の精一杯のSOS。


その結果、担任からは「入学してすぐにこんな問題を起こすのはおかしい」と、僕が問題児になり。


なんだか全てがバカバカしくなりました。

そして、両親に学校で起きていることを全てを話し、入学からわずか3週間、ゴールデンウィーク前に退学することを決めました。


今は亡き父が、その時に「今すぐそんな高校は辞めろ」と言ってくれたことで、僕はあの苦痛な日々から解放されました。


退学当日、母親と2人で退学手続きと荷物を取りに学校へ。


教室に荷物を取りに行くと、クラスでは英語の授業中。

先生たちはもちろん僕の状況を知っていたはずなのに、なぜか授業を中断して、クラスメイトの前に僕を立たせました。

教壇に立った僕は「みんなとは違う人間になるために学校をやめる」と、かっこつけた言葉を言ったことを鮮明に覚えています。


そして、その高校をたった3週間で後にする。

 

【退学後はまさかの引きこもり生活!?】


わずか3週間で退学という劇的な形で、やっとあの環境から逃れられたと安心したのも束の間。


退学後の日々は想像を絶するほど僕にとって地獄のようなものになりました、、、

退学という現実が、当時15歳の僕にはあまりにも重すぎたのです。

その結果、心のバランスを完全に失いました。


その、結果、僕は引きこもりに、、、


ここからは本当に地獄のような日々。


部屋のカーテンを一切開けられなくなり、中学時代の友人からの心配する連絡もすべて無視。


薄暗い部屋で毎日死ぬことばかり考えては、『何で自分なんて産んだんだ』、『今すぐ殺してくれ』と母親に包丁を持っていっては酷くあたる日々。


そして最も苦しかったのが、、、


この頃から現れはじめた、「身体醜形症」の症状。


鏡に映る自分がとにかく醜く見え。

こんな姿では人から笑われる、

生きている価値なんてない、

こんな姿ならいっそ死んでしまおう、

そんな強迫観念に囚われました。


そしてストレスなのか何なのか、突如髪も抜け始め、

鏡の前で何時間も過ごしては鏡を割り、

テレビを観ていてもCMの度に鏡を見ないと不安で仕方なくなる。


母親に心療内科に連れて行かれましたが、僕が辛さを伝えても、治療の一環なのかもしれませんが尿検査をしたり、悩みの核心から離れたカウンセリングがずっと続くだけで、、、

僕は自ら行くのを辞めてしまいました、、、、、


【世界のスーパースターの影響で日本を飛び出す!?】



そんな時、薄暗い部屋で聴いていたのがマドンナの音楽。


世界のスーパースター。


マドンナが10代でわずか35ドルだけを握りしめて、NYでホームレス同然の生活から這い上がったというストーリーに心を掴まれました。



心を掴まれたというよりも、当時はもう取り憑かれていたような感覚。


そして遂に、



【この状況から抜け出すには世界に出るしかない】という思いが強まり。


今すぐマドンナのいるアメリカに行かせてくれと母親にお願いしても、アメリカでは日本人留学生がハロウィンに射殺されるという事件がまだ鮮明に記憶に残っている時期で。


まだ15歳だった僕をアメリカに行かせることを母親は猛反対。


せめて安全な国ということで、



15歳の秋、僕は単身ニュージーランドへ渡りました。


日本で生きてきた15年間すべてを捨てて、生まれ変わりたい。



そんな一心で。

 

NZの高校はなんと2時間で退学!?】

当時の僕は、日本語すら忘れたい、日本で生きてきた過去を全て捨て去りたい、という思いでした。


今でこそ多くの方から「15歳で一人で海外に行くなんてすごい」と言われますが、全く誇れることなどなく。


当時の僕は、日本で過ごした15年間全て捨て去りたかった。


そして完全に新たな自分に生まれ変わりたかった。


わずか十数ドルを握りしめてニューヨークに渡り、ホームレスのような生活からスーパースターにのし上がったマドンナのように自分もなれると夢見て、ただただ海外に飛び出しただけなのです。


そして渡航先のニュージーランドにある都市、オークランドに到着。


ここから心機一転と思った矢先、、、


またもや困難が待ち受けていました。


ニュージーランドで入学した高校も、わずか2時間で退学になってしまったのです、、、汗)


当時の僕はマドンナを自分と同じレベルの存在だと錯覚し、それが唯一自分自身を保つ手段でした。(多くの方は理解できないと思いますが...)


マドンナがテレビのインタビューやライブ、会見で見せていた態度と同じような振る舞いを完全に真似ていました。


テーブルの上に足を乗せて話す。



挑発的な言葉と態度で悪態をつく。



1990
年代初頭のマドンナは、過激な戦略で世界を挑発していた時期。

それらを「マーケティング」の一環として行っていたことなど、当時の僕には知る由もなく。

そんな僕は本当に、日常の生活でそれらを真似ていたんです。。。恥)


今考えると、あの時の僕は破天荒で無礼を通り越した振る舞いでした。


そんな僕の態度に、入学したニュージーランドの校長先生は激怒し、冗談抜きで初日(たった2時間)で強制的に退学。


激怒した校長先生は、日本の両親に怒りのファックスを送りつけ、遠く離れた日本の両親は驚きと落胆、、、


 

【ホストマザーからの愛情で少しづつ、、、】

退学になった当日、異国の地で一人、僕はこの先どうすればいいのか分からなくなり、大泣きしながらニュージーランドのだだっ広い一本道を歩いてホストステイ先に帰りました。


僕がホームステイ先に到着する前に、すでに高校から退学になった旨をホストファミリーには連絡が入っていました。


僕が家に辿り着くと、ホストマザーが家の外の道路で僕を待っていてくれました。

そして何も言わずにハグしてくれたのです。

日本ではハグの習慣などなく、僕自身もハグされることに当時は慣れていませんでした。

でもこの時は、何故かすごく安心したというか何と表現したらいいか。


きっとこのハグがなく、ホストマザーに見捨てられていたら、今の僕はなかったかもしれません。


お世話になったホストファミリーは、退学になった高校から斡旋されたご家族だったため、本来なら退学になった僕なんかを面倒みる必要はありませんでした。


にも関わらず。


退学後も、『MASAをこのまま面倒みる』と、退学になった高校に連絡をし、僕を継続して面倒を見てくれたんです。泣)


その後はホストマザーの協力のもと、語学学校を一緒に探してもらい、語学スクールで英語を学びはじめました。


今考えると、英語なんて出来ないのに、現地の高校に入学した事自体おかしな話しだけど、、、汗)


そんなホストマザーは当時、ニュージーランドのオークランドにあるワイタケレ市の市議会議員でした。


すごい方だったんです。


そして議員と並行して美容師やヘアメイクの仕事もこなすとにかくパワフルな女性でした。


当時、ホストマザーが議員として勤める、ニュージーランドのワイタケレ市と、兵庫県の加古川市が姉妹都市の提携をされていて、交換留学のプロジェクトがありました。


ホストマザーの計らいで、ニュージーランドの市議会議員さんと一緒に僕もニュージーランドから加古川市に行き、日本からワイタケレ市に留学に来ている15歳の少年という事で、僕のリアルタイムの体験談を話す機会を与えてくれたのです。


僕の両親も千葉から兵庫の加古川市に行き、僕を救ってくれたホストマザーとその時初めて対面しました!

※15歳当時の僕とホストマザー、今は亡き父親。

 

 

【一冊の写真集から運命がかわる!?】

 


そんなホストファミリーに支えられた生活を経て、17歳の頃に日本に帰国。


ホストマザーの影響から、美容に興味を持った僕は、暇さえあれば本屋でファッション誌を立ち読みしていました。


そんな中、たまたま立ち寄った新宿の紀伊国屋書店で見つけた一冊の写真集。


この一冊が僕の人生を変えることに。


世界ナンバー1のメイクアップアーティストと称され、世界中のセレブリティやスーパーモデル、ハリウッド女優のメイクを手掛けていたメイク界唯一無二のレジェンド、故ケヴィン・オークイン氏の写真集。



 

この一冊にとてつもない衝撃を受け。


メイクの道に進むことを決意します!


そして18歳の頃にロサンゼルスに渡米。


Elegance international professional of makeup
にて、メイクアップの知識と技術を習得!


 


そしてこの時から、一生分の引き寄せ体験かと思うくらい、ありえないような【奇跡】が連発します。



 【奇跡の引き寄せ3連発!?】

 

引き寄せ
メイクスクール在学中、「ケヴィンがビバリーヒルズに来る!」という情報をキャッチしました。

僕は一生懸命に自分の思いを英語で手紙に書き、勇気を出してケヴィンに会いに行きました。

手紙を読んでもらえるように、カラーペンでド派手に書いて、、、

そして...遂に

1
年前に新宿紀伊国屋書店で見つけた写真集からメイクを学ぶきっかけとなった偉大なケヴィンと、なんと初対面を果たしたのです!


奇跡はそれだけではありません。


僕が渡したド派手な手紙に感動してくださり、なんとケヴィンから返事が届いたのです!


当時僕はロサンゼルスのあちこちのアパートを転々としていたため、返信先は通っていたメイクスクールの住所にしていました。(勝手に...)


授業中、メイクスクールの事務局の職員が教室に来て、「MASA宛にケヴィンから手紙が来ている!」と持ってきてくれました。


クラスは大騒ぎに。


それほど、ケヴィン・オークインという存在はメイクアップアーティストを目指す人々にとって神様のようなレジェンドだったのです!

※18歳当時の僕と、Kevyn Aucoin

 

引き寄せ
当時ロサンゼルスで活動していた日本人の美容師の方から、ある映画のメイクの仕事にお誘いいただきました。


まだメイクスクールの学生だった僕は、自分なんかでいいのかな?なんて思いながらお受けすると。


その映画のメイクアップアーティストだったのが、マドンナが1990年に行った伝説的なツアー【Blond Ambition Tour】のマドンナ専属メイクアップアーティストのジョアンヌさん!


まさに、15歳の時、ずっと暗い部屋に引きこもって観ていたマドンナのドキュメンタリー映画【Truth or Dare日本での映画名は【In bed with Madonna】にもマドンナのメイクシーンにも何度も出ていたジョアンヌさん。


当時、ロサンゼルスではインディペンデンス映画がたくさん作られていましたが、その映画もそうでした。


その映画の主演女優さんは新人女優さんだったのですが、女優さんになる前はフランスで某大御所ファッションデザイナーのアシスタントをされていたそうで、その時にマドンナやジョアンヌと接点があり、今回の作品にもジョアンヌが参加してくれたそうで。


ジョアンヌがその女優さんに施した映画ポスター撮影用のメイクを、僕が映画の撮影時に主演女優にその通りにメイクするという、誰が考えても信じられないような内容のお仕事。


だって当時の僕はメイクスクールで、ファンデーションの塗り方しか学んでいませんでした。


そんな僕がマドンナの専属を務めていたジョアンヌさんのようにメイクができるはずもなく...


最初の顔合わせの時、ファンデーションを塗った瞬間に「メイクの仕方分かってる?」と指摘を受け。笑)


コンシーラーを使うと「全然色が合ってないよ」。「色をミックスすることを学んだ方がいいよ」と、女優さん自身からも沢山×100のご指摘をいただきました。


一番出来なかったのがアイライナー。


ジョアンヌから頂いた粉々の漆黒のコールライナー。


そんなものを使ったことないどころか、アイライナーもまだ学校ではやったことない。


挙句、女優さんは『自分でやるわ』と。


そんなこんなの珍道中でしたが、女優さんからある意味メイクを教えてもらいながら、なんとかやり遂げました、、、



当時の僕は、アメリカではまだまだ子供に見られていました。


異国で頑張っている10代の男の子という感じで、女優さんもある意味僕を面倒見てくれたのだと思います。


そしてその女優さんは、その後も他のお仕事の時に僕に連絡をくれたり、アクター仲間を紹介してくれたりと、すごく良くしてくださいました。



引き寄せ
これもメイクスクールに在学中に起きた奇跡的な体験。


ロサンゼルスでできた友人とクリスマス休暇中、ニューヨーク旅行に行きました。


人生初のニューヨーク。


フライト中に機内で読もうと、空港でファッション誌を買い。


機内で雑誌を見ていると、世界的に有名な日本人のメイクアップアーティストの女性が載っていました。(以降、Aさんとします)


A
さんの存在は雑誌などで以前から知っていたので、その時も雑誌を見ながら「同じ日本人でこんなに世界で活躍しているなんてすごいなぁ」と思いながらニューヨークに到着。


翌日、友人とニューヨークの街を観光していると、見覚えのある日本人女性が犬の散歩をして颯爽と歩いている、、、


その女性こそ、雑誌で見た日本人メイクアップアーティストのAさんでした!


「あっ、Aさんだ!」と思ったものの、そんな大御所アーティストに声をかけることなど出来ず。


偶然、街中でAさんに遭遇しただけでもすごいラッキーと思ってました。


そしてその翌日、一緒に行った友人が「ニューヨーク在住の日本人のジャーナリストの友人がいるんだけど、鍋パーティーするから来ればと言ってくれてるんだけど一緒に行かない?」と誘われて一緒についていくと、、、


そこには3名がいらっしゃいました。


一人は友人の知人のジャーナリストさん。


もう一人はニューヨークで活躍する日本人のヘアアーティストさん。


そして三人目は、なんとそのAさん!


飛行機の中で見た雑誌にAさんが載っていたこと、そして昨日犬の散歩中のAさんを偶然見かけたこと、そして今こうやってお会いできたこと、を興奮しながら伝えました。笑)


これだけでも、十分に奇跡なのに、、、


更なる奇跡が起こる。


一緒にニューヨークに行った僕の友人が、「MASAも今ロサンゼルスでメイクの学校に通ってるんですよ」と紹介してくれたことで、


それを聞いたAさんが、「今度アカデミー賞の受賞式で顧客のハリウッド女優さんのメイクでロサンゼルスに行くから、送迎お願いしようかな」と、、、。


えっ!?


僕が、世界で活躍するメイクアップアーティストさんの送迎!?


でもその時は、咄嗟に『是非是非』と僕の電話番号をお渡しし。


それから数ヶ月の月日が経ち。


ある日、ロサンゼルスの自宅の電話が鳴り。


電話はなんとAさんから。


あのお話しが実現し、Aさんを送迎させていただくことに。


きっとAさんもびっくりしたと思いますが、まだ18歳当時の僕が乗っていた車は、塗装の剥げかけたボロボロ車。


今考えれば、レンタカーなどいくらでも対応出来るのに、当時の僕はそんな思考はなく。。。


その車で送迎を。汗)


そしてAさんのお仕事が終わって、お迎えに行くと、そのままサンタモニカの素敵なイタリアンレストランでご馳走してくださり。


メイク業界の話や、担当されている超大物スーパーモデルや女優さんのお話しなど、まだ学生の僕には夢のような時間と機会を与えてくださりました。

※鍋パーティーの時の写真。僕以外のお顔は隠しています。

 

そんな最高にエキサイティングな経験をメイクスクール在学中に体験し、卒業後はロサンゼルスでフリーランスのメイクアップアーティストとして活動。


ロサンゼルス在住の日本人カメラマンさんと知り合い、日本のプレイボーイ誌のメイクや、(日本にいる両親が「マサがやったメイクの雑誌」と喜んで買ったのはいいものの、トップレスのアメリカ人モデルの写真がずらり。笑)
親戚など誰にも見せられなかったらしい。笑)


当時アルバイトしていたダウンタウンにある日本人街の居酒屋で知り合った雑誌の編集者さんから、メイクの変身企画のコーナーをやらないかとオファーをいただきコーナーを持たせていただいたり。


インディペンデンス映画のメイクや、雑誌、スチールなど本当に沢山の刺激的な経験をさせてもらいました!


 

NYの街中で挫折!?】


そして2001年、拠点をロサンゼルスから世界の中心である都市【ニューヨーク】に!


ロサンゼルスのL.A.のアパートを引き払い、不要なものを全て処分し、大きなスーツケース一つだけでニューヨークへ。


マドンナが初めてニューヨークに行った時にタクシーの運転手に「ニューヨークの一番の中心に連れてって」と言って辿り着いた、【タイムズスクエア】。


僕も同じ様にタクシーで【タイムズスクエア】に。


もちろん泊まる場所など、何も用意してなく。


マドンナと同じようにポップコーンとリンゴでホームレスでもしながら自分も這い上がろう、なんて意気込みで、その日は駅でスーツケースを抱えながら夜を明かしました。


同じようにたくさんホームレス?の方々もいて、とにかく荷物を抱き抱えるように一晩を。


翌日は、ニューヨーク旅行で知り合った、日本人のヘアアーティストさんにお願いし、彼が経営するサロンにスーツケースを置かせてもらい。


いざ自分を売り込もうと街へ出た瞬間。


言葉では表現出来ない、漠然とした恐怖や不安に飲み込まれました。


当時のニューヨークは、街中で石を適当に投げれば、モデルかファッションデザイナー、アーティストに当たるだろうと言われるくらい、世界中から【野心】しかない人たちが集まっていました。


LA
では感じたことのない、とてつもないエネルギーを体感し、急にネガティブな感情に飲み込まれました。


マンハッタンの中心部の街中で。


立ち止まったまま動けなくなりました。


その瞬間、15歳からの時間が走馬灯のようにブラッシュバックしてきて。


そもそも自分は何でこんな人生を送っているんだろう。


日本で高校に行っていたら、もっと楽な生き方が出来たんじゃないか。


同級生のように日本で大学に行っていたらもっと楽しい10代を過ごせたのではないか。


何でこんな知らない土地で一人、気を張って生きているのだろう。


そんな思いが突如湧き上がり、


「もう疲れた」


今でもはっきりと覚えている。


その言葉が自然と口から出てきました。


思い起こせば、日本の高校を3週間で退学し、引きこもりになり、「身体醜形症」の症状に苦しみ、マドンナやマイケルと同じように生きると、一人日本を飛び出して外国に行き。


そんな時間が一気に蘇ってきました。


そして「日本に帰ろう」と決意。


そのままニューヨークの公衆電話から日本の母親に「もう日本に帰る」と連絡。


その日はモーテルを探して泊まりました。


自分自身に「あなたはマドンナやマイケルではないんだよ。いい加減に現実を生きなさい」というような手紙を書き、そしてアメリカを後にしました。

※アメリカで最後に撮った写真。

 

【心の勢いを失くした月日・・・】

 

 

帰国後は、外資化粧品会社やメイクサロン、ブライダルショーやコレクションなどのメイクなど、様々な仕事をしていました。


アメリカから帰国した当時の僕は、本当に破天荒で、たくさんの素敵な方々と出会っても、自らそれを手放してしまうかのように、すぐに辞めてしまうという繰り返し。。。


何をやっていても気持ちここにあらずの状態が続き。


以前から興味のあったモデル事務所のマネージャーの仕事をしてみたり、メイクとは異なる仕事をしてみても、結局すぐに辞めてしまう。


とにかく生活も心も不安定で転々とした日々でした。


そんな中、当時から学園もののドラマが大好きだった事もあり、テレビで某学園ドラマを見ていた時に、ふと、


人に教える仕事がしたい。


そんな想いが湧き起こり。


某美容学校で勤め始める。


担任としてクラスをもち、生徒管理をしながら、メイクのスキルを教える。


想像していたよりも教員職は、はるかにハードな仕事だったけど、めちゃくちゃ素敵な同僚達、生徒達に支えられて、あれよあれよと10年間勤め上げました。


それまで仕事を転々としていた僕にとって、一つの大きな成長となりました。


 

【突如、CDデビュー!?】


そんな教員生活を送っていた2012年頃。


ふと「音楽をやりたい!歌ってみたい!」という感情が芽生える。



もともと歌う事は好きで、カラオケには頻繁に行っていました。



がっ、



ボイトレなんて通ったこともない。



もちろん楽器なんて何もできない。


当時34歳の僕に出来ることは、素人レベルの歌唱のみ。笑)


そんな僕が音楽をやるにはオーディションしかない。


当時はそんな思考から、仕事が休みの週末を利用して、若い子に紛れながらオーディションを受けていました。笑)


当時の僕の定番曲、Bon Jovi の「Always」という、こってこてのバラード曲を武器に!笑)


まあ、ことごとく受からず。笑)


その時に、『この年齢から音楽をやるなら、オリジナルの曲で勝負するしかない!』という思考に変わり。


それからは毎日毎日。


仕事の休憩中にバンドメンバー募集の掲示板に投稿しまくる日々。


【34歳、音楽経験ゼロ。曲が作れて、なおかつ一緒に歌えるような方を探してます】


このままの文章を毎日投稿。



もう、完全に他力本願の精神!笑)


メールをもらう度に実際に会いにいき、お互い『なんか違うな』と。




当時はもう、それしか音楽活動する手段はないと思い込んでいたので、こんな調子で半年間毎日毎日投稿し続けていると、、、


素敵な音楽が添付されたメッセージが届く。


添付してくれた曲を聴いた瞬間、「すごい良い」と直感が働き、数日後サイゼリアで会い。笑)


そして一緒に活動することに。


そんな相方が作る素敵な曲のお陰で、インディーズレーベルから、デビューさせていただき。


人生初のワンマンLIVEでは、大御所のアーティストと一緒にライブをさせてもらったり、某番組のエンディングに使っていただいたり。

 

 

全く無名で全く人気も認知度もない僕たちが、音楽を通してたくさんの素敵な方々と出逢い、たくさんの場所に行き、たくさんの素敵な経験をさせていただきました。
※大阪駅前でも歌ったりもしました。


それはまるで、10代の頃にメイクアップアーティストを夢見てアメリカに渡った時に、たくさんの奇跡を体験したかのように。。。



僕にとっては、人生の大切な大切な体験。


 

【自分を見つめ直す出来事。そして新たな道へ!?】


教員生活と、音楽活動。


2つを両立していた2014年ころ。


僕自身を見つめ直すような出来事が起こりました。



大きな大きなストレスに支配され、毎晩のように夢の中で何度も大きな鏡が「バリーーン」という音を立てながら粉々に砕け散る映像が出てきたりと、、、


ストレスで心も体も押し潰される。


ただ、今考えると、この時から僕の精神性が芽生えていったのかもしれません。


ストレスが人間の心と体にどれだけ大きなダメージを与えるのか。


これを身をもって体感しました。


そしてそれをきっかけに、新たな道に進むことを決断。


長年勤めた専門学校を退職し、米オレゴン州ポートランドを拠点にスピリチュアルヒーラーとして活動する姉、ヒロコ・ヒバードより、エッセンシャルオイルを用いたヒーリングを学びはじめ、


そして同時期からは、某整体院でボディケアの知識と技術を習得し始めました。

 

また、一般社団法人日本レイキセラピスト協会認定レイキーヒーラーを取得し、日本トリソフィーセラピー協会認定メディカルアロマ心理カウンセラー講座を受講。


この時から、自分の本質に近づいていく感覚があり、自分の中のスピリチュアリティに基づいた思考になり始めました。


そんな中、世界を震撼させたコロナウィルス。


それまで活動していた音楽から離れ、意識は精神世界に移行し始め、


コロナ禍が明けた2022年頃からは、スピリチュアルイベントに出店を始めることに。


ただ単に、メイクで綺麗にして差し上げたいのではない。


僕自身が生まれ持った直観力と強い感受性、そして僕が生きてきた人生から身につけた能力や人間性、そして最大の武器であるメイクアップ。


それら全てを生かして、目の前にいるお一人お一人が望む未来へと進むサポートをしたい!


そんな強い思いと覚悟から、肩書きを【開運メイクアップアーティスト】とし、現在は様々な場所で、イベントや講座を中心とした活動を行なっています。

 

~最後に僕の思い~


僕自身、15歳から波乱に満ちた経験をしてきました。

その都度、自分の心と向き合い、【自分を変えたい】という思い一心で、心理学の本を読み漁ったり、自己啓発をしたりなど、たくさんたくさん悩みながら生き抜いてきました。


自分を変えることは決して簡単ではありません。

頭では理解していても、心では真逆の感情が働いていたり、

一歩前に進みたいのに、自己否定や恐れで変わらない日々を過ごしつづけたり。

時代が大きく変動している現在、みんな表には出さねどたくさん悩んでいます。


自分一人では、なかなかそこから抜け出せないこともあります。


実際に僕がそうでした。


でも僕にはその都度その都度、助けてくれた方々がいました。


そして今、僕が存在しています。



そしてこれからは、僕という存在が太陽のように明るく照らしていけるように。



そんな願いと思いから活動しています。


たかがメイク。



されどメイク。


メイクをきっかけに、多くの女性の心の変化を見てきたからこそ、自信をもってお伝えします。


あなたも必ず輝きを取り戻します!


そして自ら新しい世界を創りだしていけます!


あなたが今ここに確かに存在している今こそ、一歩前に進んでいきましょう!


『一歩前に進もう』と思った瞬間から、あなたはすでに変わり始めているから。



こんなに長い長い文章を、最後まで読んでくださりありがとうございました


MASA